父の日に81年前の虐殺を考えるとは。

今朝方、大先生から気鋭の文化人がツイッター(絶対にXと呼ばない風習が板についてきた)で人文学的な営みを経済的な生活の中で行うことの難しさと対処法について述べているものが共有され、読まれた。昨晩本の話をしたからなのか、大先生のことだからただ見つけて、お。と思って共有したにすぎないだろうけれど。いずれにせよ、何かを共有したいという対象になることは喜ばしいことである。ありがたく受け取る。

 

曰く、やはり人間の頭は人文的なものと、そうでないもののスイッチがあるということ。この事実からは逃れられない様で。やや落胆したのだが一意見としてなるほどと概ね腑に落ちた。おそらくネットを漁れば、別の意見も発見され、スイッチがない論や全て経済的な営みである論や、人文的な生命体である論なんてのも出てくるだろう。

 

いずれにせよ、自分の状態を客観視する能力が私は弱いと感じていたので、自分はどちらの時間を好んでいるのかを考えたが、ものの数秒で前者だということがわかった。というか体調崩したのはそのせいだろう。とちょっと笑ってしまった。深刻になりすぎだった。笑い事にもならないほど切実に人文的な行いを欲していることはまごうことなき事実で、ケアとして自分に与えても良いのだと納得した。人文がないと生きられない。あと野球。

 

ということで気になるトピックというか気になっていたけれど放置していたものをざっと見ると、論文と映画を交互に見て理解を深めていくという行為をすっかりやっていなかったのに気付き呆然とした。漫画だったら「ガーーーン!」とでかい効果音が頭に落ちてきているくらい。漫画のイメージがかなり古くて悲しい。ネットは便利なのであちこちに見たい映画の情報を保存している中で偶然Instagramのショート動画で流れてきた『炎628』のことを思い出し、ざーっと調べてみた。

Wikipediaには下記のとおり書かれていた。

 

ja.wikipedia.org

 

炎628』(ほのお628、原題 ロシア語: Иди и смотри、『来たれ、そして見よ』または『行け、そして見よ』[1])は、1985年公開のソ連映画

続いて概要には

1943年ドイツ占領下のベラルーシ英語版ロシア語版を舞台に、赤軍パルチザンに身を投じた少年がドイツ軍アインザッツグルッペンによる虐殺を目の当たりにする様子を描いた映画。

1943年3月22日ベラルーシで起きたハティニ虐殺を基にした作家アレシ・アダモヴィチ英語版の小説『ハティニ物語ロシア語版』を原作としている[1]大祖国戦争戦勝40周年となる1985年に合わせて製作された。

とのことで、いわゆる戦争映画の分野に入るのだが、ネット上では「検索してはいけない言葉」リスト入りを果たしており、残虐さやストーリーの恐ろしさが人々の関心をひいている様だった。が、今現在もこの様なことは他国で実際に起こっており、あぁ怖かったねでは済まされない状況となっているのが結構辛いものがある。



しかし、この作品を見る術がない(レンタル等の取り扱いがない)ことの方にしっかり喰らってしまった。戦争映画っていつからこんなに遠くのものになったのだろう。SNSを開くと毎分パレスチナについての話が出てくるのに、そんなに重要じゃないの?過去の史実って。と呆然としてしまう。戦争にまつわる文学も、絵画も、映画も、音楽も、それこそが真実だという可能性があるはずなのに、見向きもされないのかと思うとやるせない。そんなことはないのだろうけれど、やっぱりがっかりしてしまう。



気を取り直して、見る方法はいくらでもあるはずなので諦めず映画の方は追いかけていきたい。ただ、嬉しいこともあり、国内でこのハティニ虐殺を取り扱った論文が発表されており、大好きなCiNiiに世話になった。懐かしすぎて涙が出る。大好きだよ、論文検索サービス。。。

 

調べると、氏は現在は慶應義塾大学で教鞭をとっているそうだが、この論文は北大に在籍中に執筆された様子。こんなことを気にしていると北大卒のようですが私は全く違うトンチキ大学の出なので、ちゃんと書いておく。違う大学を卒業しています私は。とはいえなんとなく不思議な縁を感じる。なんとなくね。

 

スラブ文化の研究の一環としてハティニ虐殺を取り扱っていた。また驚くのだが、ハティニ虐殺とGoogle検索をした際に引っかかるのは氏の論文だけだった。書籍などはないのか...?やや嫌な予感はするが、ハティニ物語自体Wikiのページが存在していなかったため、そうなのかもしれない。

 

氏の論文は下記からPDFダウンロード可

www.jstage.jst.go.jp

 

なぜこんなに戦争への関心があるかというと母方の祖父の兄は戦争で亡くなっており、それによってなのか、祖父は私と妹が物心つく前から戦争の話を言って聞かせていたからなのだなと思う。その様な父(祖父)のもとで育った母は同じように戦争に関心を持ち、母は、第二次世界大戦、とりわけナチスドイツの歴史に関心が向いた様だった。子供の頃から、母は私にアウシュビッツの話を聞かせそれによって様々な映画の存在を知った。

 

父は、航空自衛隊パイロットになる選択肢や大学へ行く選択肢も持っていたがそれらを諦めており、母同様に人文への欲求はかなりあるのだろう。日本史について尋ねると教科書より詳しい情報が返ってくる時もある。戦争については戦闘機の最後までを知ってたりするから、敵わないなと思う。自分の欲求に従って得た知識であるから尚の事。よくあの何もない田舎でこんな人間が2人もいたよなと思う。興味関心は違えどほぼ同じ人間だからだ。恐ろしい。家にはそれぞれが持っている大量の本と資料とCDやら絵画数枚やらがあり、それをどこで手に入れたのかも分からない。まともな書店は愚か今現在はコンビニ以外で紙の本が売っていない土地だからだ。こう書くと大層裕福な家なのかと思われがちだが、人文に異様に関心のある家というだけである。母は貧乏な家で育ったし、父はやや裕福だったのかもしれないが、田舎のそれの範囲である。



母は今もホロコーストを観に行きたいと言っている。両親は50も半ばが近くなり、健康で暮らせる残りの年月を数えた方が早くなっている。意味もなく焦ってしまう部分もある。自分の知識や、連れていくためのお金の工面(これは父が出すと言っているが)など。

それとは全く関係なしに、海の向こうでは生まれる前の子供も死んでいるのかと思うと、想像力の限界を認めるより他ない。どうか1日でも早く安全な生活が訪れるといいと思う。

 

戦争という大きなものを考えてもやはり最後は家族が明日も健康で生きていることに意識が向いてしまうのだ。どこまでも個人的な願いのもと生きている。

 

※この日記を書き終えた後、先述のハティニ虐殺の年数を計算したところ、81年前だった。たった81年前。もしかしたら祖父は生まれていたのかもしれないと想像するとゾッとしてしまった。しかしそれと同じ様なことが昨日も一昨日も起っていることもまた紛れもない事実である。