「それ」について

1週間ぶりの日記。仕事が始まり「社会生活」と言った5日間。思ったよりも生活は変わらず、家に帰ったあとは絵を描いたり本が読める様になった。良い兆候だと思う。食欲も今のところ本調子ではないものの、少しずつ適切な量を適切な時間に摂れる様になってきた。

 

一番大きかったことは、自分の心の状態が良い方というのが、意思決定の条件に加わったことだ。人と関わること、時間や金の使い方、自分にかける言葉など、私が心穏やかでいられないものは基本的に選ばない。居心地がいい場所ばかりではなんの変化もないので時々安全圏を出る、と言った方へ緩やかにシフトした。何が自分の中であったのかはさっぱりわからないが、「あー普通に嫌だわこれ。」と思ってやめた。

 

ほんの数ヶ月前まで「それ」はずっと私に精神的・身体的な虐待をしていた。全てにおいて正解が存在しており、どれも決して自分では達成できないことばかりだった。「それ」はわざと私に失敗をさせて、転んだ私を蹴飛ばしたり、なぜできないのかと問い詰めたりするようなことをしていた。何もできないが口癖になっていたのは学習性無力感が「それ」によって与えられていたからだろうし、けれど、あの頃はそうするしか生きていく術がなかった。誰かに抱きしめてもらいたくて嗚咽するほど泣いた日でもあんたは愛される資格がないと「それ」に怒鳴られる。

 

化粧をした後も誰もあんたの顔なんて見たくないと言われ、化粧をしなければあんたなんてちっとも美しくない。と笑われる。私の頭の中で起こっているこれらの奇妙な出来事の原因である「それ」ついて知ること自体はできると主治医は言っていた。しかし、事実が必ずしも私を救うことになるとは限らないということだった。いくつかの選択肢が私にはあったが、結局あの凶暴で残忍な「それ」を処分するのはやめた。手に負えないことは明らかだったし、誰しも心の中に怪物めいたものはいるはずで、「それ」をどう飼い慣らすかにかかっている気がしたからだ。

 

今この文章を書いている最中も「それ」に見られている様な気はするし、不安な感情の匂いを嗅ぎつけて近寄ってこようとしているのもわかっている。

 

子供の頃ずっといじめられていたが大学を機に突然なくなった。同じことなのだと思う。「それ」が来ない場所まで走って逃げればいい。「それ」のために私が死ぬ必要はない。