ピンポンと手書き文字からは逃れられないようになっている。

いざ社会復帰!として意気込み会社に行った。というのは半分嘘で、昨晩から朝にかけて「大丈夫であろうか、大丈夫とはどのようなことを指すのだろうか?」と蟻地獄のような妄想にちゃんと振り回され、それでもむくりと起き、煙草を吸い正気になる。

 

10:30のオフィスはもう全員フルで仕事をし始めているので、そろり...。といった様子で出社したわけだが、皆さんあ、ひさしぶり〜!といった感じで迎え入れてくれた。(本当にありがとうございます!!!)と心の内で大きめの声でお礼を言って歩いた。すぐに面談があり、今後1ヶ月ないしそれ以降の去就について話が共有され、症状等について簡単に報告をした。正直なところ、外科手術で治るものではない疾患は完治という概念がそもそも存在しないので、まだ食欲は戻っていないし、仕事できるんだろうか。というような不安はある。とはいえ、こう言った類の「だろうか不安」は走り出さない限り少なくとも良い方には進まないものであるので、やれるだけやってみようという気持ち。勤務時間が9:00-18:00の固定になり月の残業は10時間以内に収まるように配慮してくださるとのことで、大変ありがたい。変にプレッシャーとして変換せずに、目の前のことをやっていきたい。そうじゃないとまた大変なことになるので。

 

 

明日から仕事が始まると思っていたが、様々な準備があるため、結局仕事をするのは来週の月曜からになった。思いがけず時間ができてしまい、拍子抜けしている。今日は野球もない。明日もない。明後日はある。

 

何をしようか決めないで過ごす時間というのも案外楽しく、ソファでぼーっとしたりをやっている。しかし今日はゆっくりできない理由がある。

 

印刷製本された詩集が夕方届く。これが大変恐ろしいことで。ブツが届くというのもそうなのだが、私はピンポンが本当に苦手なのだ。突発的に大きい音が鳴るというのが、本当に無理なのである。そのため、扉の前に『荷物はチャイムを鳴らさず扉の前に置いてください』という貼り紙を配送予定があるときには貼っている。日本以外では絶対にできない行為だが、本当に無理なのであるから仕方がないし、引っ越した際にはインターホンか宅配ボックスがある家に住もうと思う。

 

不思議なもので、うっかり貼り紙なしにしてしまった場合でもAmazonの配達だけなぜか何も言わずに置いていく。あれは一体どういうルールなのだろうか。うちに配送するのは個人委託の業者ではなく大手の配送業者が担当することが多く、Amazon(お金を出している)で無音なら他もピンポン要らなくないか。と思ったりしてしまうが、そういうわけにもいかない何らかの事情があるのだろう。せっせと扉の前に貼り紙をする暮らしをかれこれ4年くらい続けているが人によってガン無視で3回くらいピンポンを鳴らす猛者もおりもう部屋の前に座ってようかなと思ったときもある。怖すぎるからやめましたが。また、貼り紙をしてその時間に家にいなければいいのではとも思ったが、持って帰ってしまうこともある。その場合、なんだかんだ結局ピンポンに驚き「すいません!扉の前に置いてください!」が発生するのだ。

 



貼り紙といえば、それも実は苦手で、かなり怖い。街中で個人制作の貼り紙を見かけるとぎょっとしてしまう。伝えたいことしか載っていない(当たり前)のでその意思というか、まだ意思ならおぉ...。で済むのだが怒りや怨念めいたものが乗っているケースもある、犬の糞尿禁止とか、貼り紙禁止とか、無断駐車禁ずとか。どう考えてもその文字の対象となっている行為をやる方が120%良くないのだが、文字情報(しかも手書き)になるとかなり、こう、グルーヴ感があるというか、要するに生々しいのである。書道を推進していた高校の出身の身でとんでもないことを言っているのは重々承知だが、他人の生命がむき出しになるものはやっぱり怖い。嫌いとかじゃなくて、畏怖の感情である。なのでネガティブなものではなく圧倒されているという方が近いのかも知れない。計り知れない人生経験を積んできたご高齢の方が書く文字というのは内容を除いても迫るものがある。ちなみに自分の祖父母の字はあまりにもトリッキーなため一発では読めません。ほぼ勘で読んでいる。英語の長文問題で知らない単語が出てきた時の探り方と同じ脳の使い方をしている。

 

一方大先生は街中に出現する手書き文字が大好きで、本人曰く「じじいが書いたっぽいものであればあるほどいい」とのこと。ストリート文字収集家として、日夜、民家の壁や電柱をディグしている。かなり上品な方なので、突然「じじい」という単語が飛び出たときは、大層驚いた。時々大先生は「じじい」という単語を使うが、これはいわゆる馬鹿にしたニュアンスではなく、敬意のある「じじい」だなと思っている。大項目である「おじいさん」という中に「じじい」という小項目があるという印象。きっと彼は「じじい」という存在に何かしらの関心を持っているのだ。リスペクト蔑称という新ジャンル。大先生はアヴァンギャルドというかネオクラシックというか、文脈のある新しさを提供してくれる。私が単に面白がりすぎな説もある。

 

 

怖いなぁと思いながらなるべくポップに見えるように今回も貼り紙を作る。全くもっていらない配慮であるのは重々承知だが気合が入る。マジックペンだと筆圧が乗りすぎるし、ボールペンだと適当すぎる。かと言ってクレヨンだとホラーめいた不穏さが出てしまう。どうしたものかと思い、ふと絵具箱の底を漁っていると、製作で使っていたギンギラのポスカが出てきた。「ギンギラのポスカ!!」とまた心の内で大きめの声を出した。ギンギラのポスカとは、uniのポスカ極細タイプぎん.26のことです。コズミックな方のシルバーをしており、文字を書いても文字というよりタイポグラフィー感が出ていい感じ。物は言いよう、病は気からである。ただ、残念なことにギンギラは白い紙の上で全く見えず速攻で没になった。あーん。

 

あーだこーだ言っているうちにピンポンが迫ってきて、狼狽える。
というか貼り紙をしたのに、ピンポンは配達員によって鳴らされ、飛び上がるほど驚かされぐったりした。

 

結局私には、ピンポンの音は止められないし、貼り出された街中の手書き文字を全て明朝体にすることもできない。一生ピンポンと手書き文字にびっくりして生きていくのだ。