セルフケアもほどほどに。

セルフケアだのセルフラブだのといってセミナーや商品が売られているらしい。というか目にしてきて、その度になんと胡散臭いことか!と思っているが、めくじらを立てるほどのものでもないので、そういうケアが必要な人もいるよな。と思う。一方でやはり外部発注だと、根本的な解決にはならないのでは?という一抹の不安もありどんなに辛いことがあっても(今となってはこの辛さも妄想の域を出ないのだけれども)それらのキラキラコンテンツには近付かないようにしていた。いいかどうかはわかりませんが。

 

どうしてもケアというと癒すや休むといったニュアンスが多く、優しくいることを強いられる気がしていて、別に怒っても泣き喚いてもいいだろうに。と己の性格との不一致を嘆いたりもしていた。やはりどこかで、画一的なものをインストールしなければならないという点において上記のセルフケア界隈には一線を引かせていただいている。というのも私の苦しみの根源はその画一化された理想像であったからだ。こうしなければならない、このような対応をされなければならない。〇〇でなければあなたは幸せではありませんから。と突き放されているような。小さい頃に、私だけなぜか共有されなかった色々があったがそれを知る術がなかった時のあの嫌な感じに似ており、そういう直感は大体当たる。

 

藁にもすがるような思いでしんどさの中にいるというのに呑気にキャンドルを炊いて風呂に入れるやつがどこにいるのだ。というのを問いたい。誰に聞いたらいいんですかね?

 

真面目な話に戻すと、他人から与えられた方法というのは最初の数回はうまく行ったとしてもそれ自体は自分のオリジナルではないので、どこかで無理が生じるのではないか。多少時間はかかっても、その手があったか!的な発想の方を大事にしていけたらいいのになと思う。私は、つい最近まで、疲れた時は誰かに癒してもらうべき、というのがインストールされていたせいで辛さが50倍くらいになって返ってくる羽目になった。であれば携帯をおいて外に出かけ、人に癒してもらわずとも自分を癒す経験をどれだけ小さくても成功体験として覚えさせる方が良かったりした。これも自分が行動したからわかったことで、人から教わったことを延々なぞるだけではエンドレスに地獄であった可能性がある。

 

もちろん教わったことを実行してその上で自分にフィットする形を作れればそれがベストの一つでもあるだろうが、ケアを必要とするくらいの精神状態においては、うまくいかない経験が一つでもあるだけでどん底まで最速で落ちてしまうので結局うまくいかなかった記憶だけがうっすら澱のように蓄積されてしまう。

 

生理前で些細なことで落ち込んだり、空元気になってしまうが、うーんと思い直し、無理に落ち込む必要もなければ元気である必要もないし、そうなったらなっただな。と考えたりした。雨の日は何かを許されている気になるが、誰に許しを請うた覚えもないので、静かにのそのそ暮らした。曖昧に寂しいときは一人でいた方が良い。それくらいの寂しさならば一人で抱えられるし、抱えきれない寂しさを感じるものについてはそもそも触れるべきではないのかもしれない。

 

入稿した詩集が明日届く。今すぐに見たい気持ちもあるが、落丁していたらなどと思うと胃に穴が開きそうなので一生届かないでほしいとも思う。あの段ボールを開ける時が一番怖いので毎回冊子なんて作るものですか!となるが、結局人は歴史を繰り返しますから、半年後にはまた忘れて何か作ろうとしているのだろうな。