仕事だけが特別なものとして崇められているのは結構雑な価値観である

1ヶ月くらい結局仕事を休む羽目になったが、無事来週から復帰することになった。

 

正直、仕事ができるありがたみとか、休む素晴らしさとか、よく見聞きするけど、そういうことじゃないというのを理解した期間になった。経験していないことを想像することはできるけれど、やったことがないのだから鵜呑みにする必要はない。私は働けることが素晴らしいとは全く思えませんでした。できれば仕事なんてしたくない。というかしたくないならしない方が良い。という具合。したい仕事をすれば良い。

 

会社にいる仕事だけが特別なものとして崇められているのは結構雑な価値観よの〜と思った。それが生きがいであることは素晴らしいことだし、何十年も労働に課せられることからは逃れられないので、ダメだとかダサいとかそういうことじゃなくて、なんというか、使い古されている表現だけれども、本当に、いろんな人がいていいと思います。遅くまで自主練するのが偉いとか早く朝練に来るのが偉いとか学校の部活的な発想に現役時代も馴染めなかったので多分私は違ったんだなと。

 

会社勤めをするのであれば、仕事と同じくらい家での暮らしも大事ですし、野球は家での暮らしとは別の枠にありますし、友情や様々なパートナーシップも全部同じ階層にいます。私の人生なので。なのでその領土を喰うことがある場合はこちらで調整しないといけない。そっちに労力は裂かれるべきで、無理なら無理で撤退しても良い。

 

あと、いい子ぶるのをやめにした。
何事もそうだが、他者から向けられるご意見についてそれはそれとして、私は知ったこっちゃないです。と内心思っている。そうならないように自分を押し込めていたら家から出られなくなり、人と話す方法を忘れた。忘れてしまったので、もう前の状態には戻れません、すいませんけれども。と言った気持ち。残ったものでやらせてもらいます今後は。じゃああなたはどうしたいの?に、常に即座に答えられる自分でありたいです。その上で自分を成長させてくれる意見や経験は喜んで受け入れる。何にせよ、自分がないと始まらないことばかりである。

 

情緒が落ち着いていることと、感受性が乏しいというのは必ずしもイコールではなく、逆も然りで激しい情緒の人間を感受性が豊かというのはだいぶ適当に物事見ているんだなと感じた。相談して向こうが慌てふためく人が時々いるが、あれコミュニケーションとして破綻してる。自戒も込めて。

 

情緒が揺れていると、対象を適切に見ることができない。当たり前だけれど、ジェットコースターに乗って民家に干してあるTシャツの色とかわからない。だったら徒歩で住宅街を歩いた方がいい。それでも何もないところで転ぶこととか平気であるのでそういう時だけ対処する。毎日忙しなく感情を動かさなくても、人生は変なことばかりが起こるのでそれもアリだなと思った。

 

とにかくできるだけ多く面白がって生きていきたい。立派とかおしゃれとかそういうのはもういい。違和感や不真面目さにしか宿らない切実なものの輝きを抱きしめていきたい。

 

それが1ヶ月過ごして得た知見です。