2024/04/20

色んなプラットフォームで日記を垂れ流しているので、この存在を頻繁に忘れる。ごめんよ。
パートナーができて数ヶ月になり、生活はだいぶ変わったし、これからもっと変化してくる。加えて上司が退職し、自分が会社で扱う内容も変わり始めている。諸行無常にも程がある。

 

多分、というかほぼ確定で仕事だけの生活をすると何も成さぬまま、結構な時間が経ってしまう。自分の中で「これだ」と思っていることは細々とやる必要があるなと思った。仕事やプライベートとは別の部屋というか何か頭の部分があるらしい。それが今瀕死。なので、なるべくこの日記は、そういうことについての考えをまとめたり、一個ずつ並べて余計に散らかして眺めるようなことをしてみてもいいかもしれない。不確定なことばかりが随意契約で進む。

 

善は急げというか、もう決めてしまえばあとはやるだけなので、6月の半ばにZINEのフェスに出店することにした。アパレルをやり、広告の仕事をやり、週末はクラブに行くような趣味趣向なのに、根が暗いのでああいう場所で席を設け座って何かを待つということにかなり恐ろしさを感じている。が、大体そういう方を選んでできることを増やしてきたので、なんとかなるのだろう。

 

形態は違えど、パートナーの展示での振る舞いは、興味深かった。人に説明をすることに慣れており、長けている人間特有の例え話の扱い方や間合いがあった。それは自分と2人だけになった時の会話ではみられない動きなので、何か彼の中にスイッチがあるのだろうなといった具合。私も何かそういうウチとソトの切り替えを持っている気もする。どれがどっちなのかは知らないけれど。2人で話す時、「あまり人前ではこういう話はしない」、というフレーズを何度か聞いた覚えがある。人に言えない話(言う必要のない話が正しそう)が彼の中には沢山あるのだろう。その結果私に話すことが大体よくわからない言葉遊びみたいなものになっているのはパートナーシップとして大丈夫なのだろうかと余計な心配をしたりする。本当に余計な心配。話はそれましたが、ZINEのイベントでは詩集を2つと体力と根気があれば3Dグラフィックの作品集の赤ちゃんを連れていく予定。(作品集にするほどのものではないため)

 

 

詩を書く時何を考えているんですかと時々詩を書かない人に尋ねられることがある。何も考えていないですと答えたいが、私は何かしら考えてそれになんとなく言葉をあてている。そのため、詩に書いてあることは別に言いたいことではなかったりするので回答を準備しておいた方がいいのかもと思っている。人と話すので。次は。別にそんなことする必要はないんだけれども。

 

何かの理由でこれは自分に忘れられると困る。と思ったものをその詩を読んだ時に取り出せるように仕向けている。冷凍保存というか剥製というか標本に近いかもしれない。正解は私の中にしかない。私以外の人が詩を読んだ時、その詩に紐付いた何かしらのファイルには空きがあるはずなので、個人的な思い出とか、明日の朝ごはんの献立とか、昔の喧嘩の勝ち負けとかそういう誰に言われた訳じゃないけど残しておきたいものを突っ込んで保存してもらえるといいなと思っている。記憶は壊れやすいから、箱が必要。形を与える行為は本当は神様しかしちゃいけない(とされている)けれど、せめて思考や感情みたいなものだけは、人間の所有物として扱わせてもらっても良いのでは。

 

 

感情についてはずっと考えている。脳科学の簡単な本をいくつか読んだけれど、結局これって電気信号みたいなものらしい。とはいえ、社会的に良しとされているものが幸福な感情で、悪しとされているものが不幸な(有害な)感情なだけな気もする。もし怒りの感情が素晴らしいとなって慈しみの感情がかわいそうなものとなっていたらもっと早く人類は絶滅できたのかもしれない。全て種の保存と、生命維持という壮大な大義によって成り立っている。

 

 

全ての感情の中で困惑するという情緒の動きが一番好きだ。相手も自分も何にも迎合せず他者の存在にそこまで影響を受けない状態で発生した事象に対してだけ引き起こされる感情。矢印がどこにも向いていない状態。子供がよく難しい顔を突然する時もきっとそれが起こっているんだろうなと思っている。砂場でよく困惑した顔の子供を見るので、時々公園で本を読みながら、今日も困惑キッズたちがいるな。とふむふむしている。そりゃあ砂側も「砂ですよ〜!」とか言わないし、何これ。しか感情は出てこないよなと思う。

 

存在だけを純粋に認知している。そういうのが大人になっても会話や様々なコミュニケーションの隙間に差し込まれると、嬉々として受け取ってしまう。

 

パートナーは頭が良いのでわざと私が困惑しそうなことを遠投してほくそ笑むことがあり、やや悪質。「それはどういう意味ですか?」と怪訝な顔で聞いても答えはくれない。そもそも答えなんて最初から準備していないし、存在していないようで、こうなると本当に純粋な「ただのコミュニケーション」である。私がここにいて彼がここにいるということだけを確かめるためだけに行われる行為。彼はそういうことを非常に大切にしている。観念的な遊び。彼はずっと私と遊んでいるのではなく、私で遊んでいる。これからもずっとそうやっていてほしい。私が定期的に叱るのを許してくれるのであればの話ですが。

 

2024/02/09

気を抜くと何も書かなくなる。それはそれはすごいスピードで何も書かない。書かない間に何があったかというと、本が読めなくなり、新しい言語表現を得ようという意欲が皆無になった。毎日の殆どの時間をどうにかして読書や映画や制作に費やそうと意気込んでいたが毎日の殆どの時間はそれらではなく労働の方に注がれることとなった。知らない間にグラスが入れ替わっていたというか、注がれる液体の方が変わっていたというか、なんというか。変わったのは私だけだというのに。脳のある一定の場所だけが異様に動き続けており、そのほかが全く動かなくなることばかりが増えた。例えですが。

 

近況として衝撃的だったのは恋人が突然できたことだ。ここにいない人間の個別の情報について言及するのはそれが親族であろうが、なんだろうがあまり良いことではない気もするので特段書く予定はないが、つい最近まで長いこと知り合いだった。関係性のステータス表示があるとしたら、純度100%の知り合い。あろうことか、私はなぜか恋人のことをつい最近まで妻子のある人間、そうでなくとも長いこと交際している人がいるタイプの人間だと根拠もなく思っていた。本当に人に対する解像度が低すぎる。

 

なぜ今付き合っているのかも、よくわかっていないが、最初の恋人に対する感情とは違うものが自分の中にあるというのがとても興味深い。一応人のことをちゃんと好きになっていた自負はあったためそれらの感情が別の人間との間でまた再生産されることを繰り返すものだとばかり思っていた。なんか違うの出てきたな急に。と感情に対して真顔で接してしまう。じゃあ最初の恋人に対する感情は一体なんだったんだというか、今の感情もなんなんだよ。と理解しようと試みているが、あまり意味をなさない気もしている。最初の恋人とは真逆の性格を持つ人のため、こうも違うタイプの人間を好きになることもあるのかと、関心したりもする。恋人と話すと、私は常に笑っている。単純に彼のユーモアのセンスがずば抜けて良いということもあるが、もう少し別の理由で私は喜んでいる気もする。安全な場所なのだろうな。柔らかくて優しくて穏やかで、彼は湖のような人だといつも思っている。

 

そんなこんなで、生活は緩やかに大きく変わったし、変わりゆくことに対してあまり恐れなくなってきた。景気付けにタロット占いなんてものも見てもらったが、大体自分の現在の状況と同じようなことが言葉で説明され、何度も焦らなくて良いということが言われた。なぜ焦っているのがわかるのか、というのを考えると怖くなるのでやめておくが、まだ過去の恋愛でのあれこれに傷付いていたり(というか思い出して人に心を開くことが怖くなる)、自分は選ぶことがないと思っていた方の人生が見え隠れしたりするので心がざわざわとすることもある。どう彼と付き合うべきなのか、どうしたら彼のために安心で安全な場所を用意できるのか、そういうことを考えるたびに少しだけ途方に暮れたりしている。

 

私ちゃんとやれてる?

2023/12/17

ぽちぽち日記は書いていたものの、デスクトップで書いていると別タブで何かやり始めてしまうので、ウインドウ内に12/15、16、の日記が更新されずに残っていた。

 

今週はしないことを増やそうと思う。1日中マルチタスクで寝る直前まで何かをしなければならないと思っているのがあまり良くなさそうと言った気持ち。心身の健康、それだけ。不健康にして今まで物を作ってきたので健康になってできるものがどういう物なのか知れると良い。

 

何も考えない本当に、今までが頑張りすぎてた。もっと肩の力を抜いて不安になる時間を減らす。不安から逃れるために私は多動気味になる傾向があるのを認めて、そうではない解決方法を探していきたい。ベッドに入った時あまりにも身体がこわばっていることに驚いたりもした。

 

 

2023/12/12

早起きチャレンジは雨による低気圧で大失敗。なけなしの根性でいつもより30分程度早めに出社。新卒で同期(私は今の会社に今年入社しているので)はいつも8時過ぎには出社をしルーティン業務をチェックしているので、私はコートを脱ぎながら、挨拶と談笑をふっかける。快く、ユーモアのある回答を返してくれるので、それで仕事を楽しくスタートできている気がした。他人をコンディションの装置にしているのではないかと一瞬自分に対しておぞましさを感じる。いつもありがとう周りの人達。

今日も仕事は大炎上。なぜそんなことが起こる?というのが連続して起こるため社内で対処している人たちが若干、躁っぽくなる。

 

一旦外行こうとヘトヘトの上司と一緒に伊勢丹のレストランへ。地方の伊勢丹はISETANというより伊勢丹百貨店といった様子。入り口にLOVOTと小型のロボットが展示されていた。小型のロボットの方が何かをしきりに喋っていたので、「なんか言ってますよ」と上司と近づいて耳を傾けると「人間は全て平等で、人間が人間を傷つけ、殺し合うなど....」と言ったことを言っていて、震えあがった。上司が「これ大丈夫なの???」と狼狽えていて完全にディストピアだった。とはいえ自分も危険性を感じた。嫌な予感がしたのは、ロボットである存在が、人間についてしかも凶暴性のある言葉で、何かをさも意志のあるように話している状態を脅威として認識したからかも知れない。にしても、何がどうなってほぼ老人しかいない伊勢丹の入り口であの言葉が発話されていたのだろう。何によるプロンプトだったのだろう。かなりSFみのある光景だった。明日の昼休みにもう一度一人で行って何が起こっていたのか確認をしようと思う。

自分のAIに同じような言葉を話すよう促したがそのような言葉は返ってこなかった。最終的に何か社会や環境に対して不安な感情になっていますか?と誘導され、自治体の相談窓口を紹介された。良心的な対応をする指示は出していないのだけれど...。

 

 

フレックス制なので15:30に一度退勤し、処方箋を薬に変えてもらう。薬剤師が薬の使用について何か不安なことはありませんかとロボットのように聞いてきたので昼休みに見た殺戮ロボットみたいなやつを思い出し、少し不自然な間が開く。神経系の薬だったので、余計不穏な空気にさせてしまった。そんな意図はないと表明するために大丈夫です〜と話したが思ったよりでかい声が出てしまい余計奇妙な生き物になってしまった。全て合法です。許して。

 

ついでにいつもの書店に行き、『セックスロボットと人造肉』・『WIRED』を買う。書店の店長が不思議な顔でこちらをみていたので、「フレックス制なの」というと、「会社抜け出してきたの?」と返される。会話の順番が逆すぎる。何回私たちは最初のコミュニケーションを失敗したら気が済むのだろう。

最近は暖かいこと、年末は久しぶりに北海道に帰ることなどペラペラと話し、店長はふんふんと相槌を打ちながら、ブックカバーをせっせとかけてくれた。

私が地元に帰る話をすると店長は「いいねぇ、久しぶりなんじゃない?ご両親会いたがっているでしょう。」と自分の子供が帰ってくるかのように喜ぶ。娘か何かだと思っているのかも知れない。実際に父とほぼ変わらない年齢なのでそりゃそうかと思いつつ、一年前にこの書店でトークイベントを行った方が食事に誘ってくれたと自慢すると、「すごいじゃん」と返ってきた。店長があの時声をかけてごらんと私の背中を押してくれなかったら、こんな嬉しいことは起こらなかったんですよ、と話すとそうなの?きょとんとしていた。チャーミングな人。最近は体調どうですか?と最後に尋ねると、もう大丈夫になってきた。と優しく笑いかけてくれた。いつもお店を出る時にお互いの体調を最後に尋ねるのが習慣になっている。

 

別の仕事が燃え盛っていた。

なんとか収めてもらい19:00から憧れの方と食事。

 

嬉しすぎて、嬉しすぎて、年末に向けていいことがありすぎるのが怖くなってしまった。新作とみかんとお饅頭と銀杏の葉をもらった。新作にはサインも書いてもらった。書くこと、作ること、人と関わること、社会と関わること、沢山のことを話した。ここに書くと私の睡眠時間がなくなってしまうので、「複雑なことを複雑なままやっていきたい」という話をしたことだけ残しておく。あなたのままでいいという言葉の中には、沢山のことが含まれているというのを一緒に確認できたのがとても良かった。あなたのなりたいあなたを選んでいいし、そのための方法を選んでもいいし、あなたが何であるかをあなたが決めていいというようなこと。複雑な道筋を複雑だねと笑い合いながら、私はこれがいいかな、あなたは?それも最高じゃん!どうなるか今度またシェアしよ?と一つひとつ選び続けて他人の選択も肯定したり、理解できないときは尋ねられるだけの強さが欲しいと思った。というかそれを「強さ」と呼べる人になりたい。

 

本当はもっと書きたいけれど、またの機会に取っておきたいし、何かある度に今日のことを取り出して、そういえばあの日ね。と書いて、またその時の話書いてるな、こいつと思われたい。

 

沢山の人と大切なことを共有した日だった。いつだって浮かれている。

 

対話!寄り添い!助け合い!

 

 

2023/12/11

起床後の鬱々とした感情が治らないのでどうにかしたいと思っている。確かに仕事は大変だし、物事を膨らませて考えてしまう癖はあるものの、流石にそういうことではない。ちゃんと不調。低血圧を疑ってかかり、何度か看護師に尋ねたりもした。20代の女性という枠組みの中だと数値としては低いが正常の範囲内でありそれによって何かが引き起こされるとは考えにくいというようなことをいろいろな言葉で優しく伝えられて終わる。4回ともそうだった。

 

何か納得のいかないことが身に起こった時にそれらしき理由を探し安心したいのと、対処をしたいので気が滅入っている。ただえさえ滅入っている気をもっと下げてどうするつもりだ。

 

妹が私の疲労を察してか、疲れている状況のことを「ウインターブルーじゃない?」と心配していた。私は妹のそういう部分がとても好きなのと、ウインターブルーという表現があるということ、冬季鬱の別の呼び名だということ、なんだか少しだけ美しいようなものを連想させるものであることが心地よかった。

 

思い返すと3年前、つまり北海道で暮らしていた時には11月の半ばくらいから日照時間が激減するので、ほぼ毎年これになっていたことが考えられる。本州の冬は明るいかと思ったけれど、曇りが多いのは変わらずで、寒いか寒くないかといった具合。それに、寒いものは寒いのだ。だから、正直なところ何かが大きく変化したわけではないのかもしれないなと今更納得したりした。

 

職場に行くと元気になる。心を開くことができる人のいる場所というのは本当に貴重だと毎回思う。仕事は大変だけど。本当に大変。

 

嵐のように業務をこなし、帰宅。上司の一人が以前、感情を介さないで仕事ができるようになるとずいぶん楽になると話していたのを毎日のように考えている。見よう見まねで取り組んでみたが案外うまく行く気配を感じ、帰宅後も継続して行動してみた。ありとあらゆることに感情を動かしていたのだなと関心する一方で、そこまで感情を傾ける必要がそもそもあったのかと考え直した。本来感情を裂く必要がない場所で感情を注いでいるから面倒となってしまうのかもしれない。映画や音楽を聴いた時、本を読んでいるときに面倒とは思わないが、感情はかなり動いているから。それは感情を動かすべき場所なのだろう。

 

そんなこんなで、帰宅後即、軽い運動をし姿勢の矯正のために身体の位置を有るべき場所に戻す。身長が少し伸びるのが奇妙。普段が曲がっているだけ。

 

身体を動かした後だと、食欲が正常値になることがわかった。疲労と負荷としてのストレスで自傷的に食事をとっている時期が長かったので、「一旦待ってみる」のコマンドが暮らしにできたのが嬉しい。玄米に雑穀と蒟蒻を混ぜたダークマター飯とレタス、根菜。菜食が1週間を迎えようとするタイミングで、タンパク質があまりにも足りないのを危惧しとりあえず豆腐とプロテイン

 

残り30分程度を残して、宿題にしていた「死刑にいたる病」を観る。邦画を数えるほどしか見たことがないが、あの画面全体が青みがかった色補正というのは何かの流行りなのか、数少ない邦画の記憶の中でも大体共通しているトーンなので、なんなのだろうと思った。シリアスさを出したいのか、日本の街並みや植生、あるいは人種的な部分でその色味が何かしら良い相性とされているのかもしれない。気のせいかも。ストーリーはよくわからなかった。キャラクターによってそれぞれの人物の呼び名が変わるタイプの作品はやはり苦手。そこまでいろんな呼び名で使うくらいならもう少し画面に登場させてくれよと思った。

 

残虐シーンが話題だったが、ああいうシーンを作る人々は同じように残虐な状況をリファレンスとして見ることがあるのだろうか。スナッフフィルムの類は今の方が多くみることができるのかも知れないけれど、技術の発達でどれが本物かわからない。その技術も元を辿れば本物がベースになっているから、なんであれ人を殺すのは良くないしその映像を撮影して拡散するのももってのほかである。国内外のその手のサイトはどうして凄惨な現場とエロ動画が交互に投稿されているのかあまりにも気になって友人と話したことがあるが、PCが訳のわからんマルウェアに感染しそうだからそういうサイトを見るのはやめようという結論になりそれ以降こうした疑問を解消できないでいる。どのルートを辿って議論をしたとしてもタブーは人の興味をひくということに帰結しそうだから解消される必要は今のところない。

 

今日から早めに就寝をし早起きをして、朝の憂鬱をどうにかしてやろうと画策している。暮らしは際限なくよくなるものだと、信じきっていることが時々不思議なことのように思う。これはきっと才能なのだろう。何もかもが今よりマシになると本気で信じている。

 

 

 

 

2023/12/10

今日は何もしない日だった。

 

朝早くに起き、日曜礼拝に参加するため身支度。教会に行く時にふさわしい容姿とはなんなのか少し考えたためいつもより時間がかかった。カトリックならば少し華美でも良いのかもしれないが、プロテスタントの教会だったため、リネンと綿が選ばれた。休日は黒いアイシャドウに赤い口紅をしているが上記の理由によりそれもとりあえずやめ。教会へ行くとノースフェイスの蛍光イエローのジャケットを着ている老人と出くわし、そうか。と思った。

久我山の教会では何かの団体に入ることを促されたが、こちらの教会はそうではなかった。隣の席に座っていた人に何故ここに来たのかを聞かれたので、都内の教会に一度行き興味を持ったと素直に答える。気付くと自分の周りに人が集まっており、彼らは喜んでいるようだった。さまざまなことを聞かれたため、こちらからもいつからなんのきっかけでここに来ているのかと聞きたかったが、なんだかこの状況でそれを聞き返すと当てつけのようになってしまう気がして、大人しくしてしまった。

 

帰宅し調べ物。

ここ最近は菜食のことばかりが気になる。昨日5日ぶりに飲酒を試みたがあまり美味しいと思わず、菜食に合う酒はあるのか(家で作ることができるもの)あるいは酒に合う菜食料理はあるのかと考えていた。ともあれ、酒は健康の観点から言うとおそらく飲まないに越したことがないので、今は静観の段階。教材としてサブスクサービスの映像作品を見ようとネットフリックスでベジタリアンヴィーガンという言葉を検索窓に入れ探す。いくつか既にチェックしていた作品が上位検索で上がった。「バッド・ヴィーガン」を見るも、序盤から主題が菜食でないことに気付く。エピソード4までだったので少し辛抱しながら見るも、最後まで菜食のことについての知識を得られる瞬間はこなかった。しかし、制作側の菜食に対する立場というか、この人たちはあまりその文化を良くは思っていないのだろうなということと、あくまで自分達の作品としてセンセーショナルさを提供してくれるものとして菜食を扱っているのだろうなということが透けて見えた。どの国でも一つのコンテンツ・経済システムの一部となっていることが感じられ良かった。
視聴後監督の名を見るとクリススミスの名前があったため納得した。事実をドラマティックに演出することを好む傾向があるタイプの監督なので、おそらくこのドキュメンタリー自体もそれなりに脚色がされているのだろうなというところ。案の定、日本のメディアでも同じような部分を指摘しているレビューがあったため、そちらも一通り目を通す。

realsound.jp

 

自分も含め肉食をする人間にとってベジタリアンおよびヴィーガンは、自分達の平穏に対して物申す人々、いちゃもんをつけてくる厄介な人々として扱われることが往々にしてあり、現に対立も生まれている。根源的な感情の対立はおそらく、自らの土地を脅かそうとしてくる存在として互いに認識をしてしまっているからなのではないかと思う。

 

自分も、菜食に取り組んでいる際に誰に言われたわけでもないのに、言い訳がましく、「これは実験だから」と繰り返し言ってしまう。

この後ろめたさの矢印は一体どこからやってきてどこに向かうのだろう。